戦後を代表する政治学者として知られるだけでなく、知的批判的精神の立派な足跡を残した丸山真男。そして、教養ある著名な父母のもとで不自由なく活発な精神活動を育み、反戦平和を貫いた哲学者古在由重。二人は、旧制の高校大学で先輩後輩の関係にあった。
  この二人の対談が『エコノミスト』に掲載されたのが1966年。まさに「大学闘争」が燃えさかりつつある頃であった。当時を学生として生きた僕は、お二人の対談には特別な感慨を禁じえない。
  この本の書評をというお話があった時、その最適任者であるとは思えないけれども、この機会に、「大学闘争」という時代を生きた自分たちを見つめ直す機会にもなることだろうと考え、喜んでお引き受けした。以下は、『葦牙』誌(同時代社刊)27号に掲載したその文章である。

 煌めく古在由重と丸山眞男対談の精神


「暗き時代の抵抗者たち」

                                  

  古在由重・丸山眞男の歴史的対談(丸山さんのインタビューという形の対談)をメインに置く本書の重要性を論じる場合に、のっけから世代論を持ってくるのはどうかと思われる。しかし、私にとっては、次の部分を引用してからでなければ始まらないのである。
  「僕の場合は学生などに接して」「戦争中の疎開も知らないし、数年前の安保闘争からももはやかなり遠い、いわば、この点では白紙ですね。」「『いかに生きるか』という問題ですね。これを出発点として、あらためて一つの新しい手さぐりが、ごく一部ですけれども、この世代に起こっているのではないか。」「つまり、戦争の傷とか、安保の挫折とかいうものから免れた、さっぱりした人たちです。だからこれらの人は、ニーチェというものが出れば、それにも飛びつくだろうし、なにが出てきても飛びつくかと思うのです。」「いまのそういう人たちはやはりベトナム戦争とか、日韓条約とか、ということにも十分に関心をもっています。同時に何かしら哲学的なものを求めている。そういう一種の混沌状態、未分化の醗酵状態があって、なにか一定のもの、たとえばシェストフ的、ニーチェ的という一定方向へ走ろうというような必然性というか、蓋然性は、まだ持ってはいない。むしろ模索の状態がはじまって、これは僕にとってはある意味では非常にうれしいのですよ、実は。」「僕の接する大学一、二年生の学生諸君と話をしていると、半世紀ちかくをへだてながら、かえって非常に共通するものがある。その意味ではこれらの人たちは、モダンでありながらも、また同時にクラシックなのだ、案外。そういうふうに、非常に善意に解釈したいのです。けれども、これからどうなるかは、実は全然保証できない。この混沌がまた古い鋳型に再生産されてしまうかも知れません。」「どういう方向へ向くかということの責任は、やはり今の青年よりもう少し年長の人々がどういう方向へむかっているかというところに、あるのではないかと思いますね。」(一四三〜五頁)
  古在さんが本書でこう語るその世代が私の世代である。しかし私らは既に五十代に入っており、次の若い世代と向き合うことを久しく続けてきた。高校と大学が同じであった丸山さんが、十三歳年長の古在さんに、世代の違いを強く意識して話を投げかけるのと同様、私も、既に故人となられた両先生へ、世代を意識して問題を投げかけて見なくてはならないと思うのも一つの道理であろう。
  戦後ベビーブームに属する私の世代は、俗に「団塊の世代」と呼ばれる。要するに一塊でなければ何もしない、できない世代ということで堺屋太一氏が私たちをそう呼んだのである。私には何を言うかという思いが今なおあるが、しかし、言われてみればなるほどと思われる節がないわけではない。古在さんが私たちに期待を寄せたその「一種の混沌状態、未分化の醗酵状態」からの新たな思想建設を、果たして私たちはどれほど成し遂げてきたのか、そういう反省をすべき年齢になって本書を読む。
  私たちの世代が果たしてどれほど歴史を意識して学び、自らをその歴史の中に位置付けて行動してきたか、従ってどれほどの自覚をもって子ども達を育ててきたのか、これはもう大分真剣に反省しておかなければならない問題である。歴史への態度とか向かい方というものがどうであったのかということも合わせて考えてみなければならない。それを抜きに、高尚な歴史観を論じるなどということが許されるとは思われない。
  歴史への距離は、社会と教師が決定付ける。国家と教育、と言い換えてもよい。
  その意味では、私たちも時代の子である。六十年代後半の学生運動の渦中において私たちが体験したものの中には、極めて狭くささくれだった排除の論理や身内意識が働いたこと、権威主義に対する弱さと従順、失望、反発などがあって、その後の運動や活動への不信に連なったことは否定できないと思う。社会を変えること、革命を起こすことが先決で、そのための先兵的役割を果たすことが、情勢への優先的な、最も主体的な取り組みであるとされ、実践への献身性が評価された。じっくり学び、自主的に考えることは、ブルジョワ思想として嫌われ、日和見主義と呼ばれて排除を受けた。考える仕事は、一部の特権的地位や名門大学に所属するエリート達に任せられたとすら言える事態があった。「古い鋳型」で若い世代の闘争が組織されたと言わざるを得ない。それを否定できるほどの創意を持った取り組みはほとんど許されなかったと思われるのである。司令塔の指示に従って闘争する姿は、時代錯誤的である。団塊と見られてそれを否定しさるほどの力はそこには存しなかったと言われても仕方がない。次代の本格的な民主主義の担い手を生み出すという課題は、このように人をみくびった性質の活動を耐え抜かせること(労働者的・革命的精神!) から始まった。戦いや活動と「同時に何かしら哲学的なものを求めている」広範な学生に、大いに基礎から学び、徹底して根底から考える習慣と力を付けさせること(まさにフィロゾフィーレンせよである)、議論することによって自分らを陶冶したり、しなやかな人間性を身に付けていくことなどを軽視した結果、時代を支える民主主義的感覚や理論が多く未形成となり、学生達は社会に出て行くしかなくなった。これらのことは、古在さんの投げかけた私たちへの問いとして、どこかで総括をなしていくべきことと思うのである。
  理論の歴史的限界という言葉がある。しかし安易には使えない。歴史的役割を正当に受け止め理解しえて初めて意味を持つ語であるからだ。限界点は、時代に生きるものが、継承の作業を正しく行う中で、時代への橋を架けるために見出さなければならない事柄であって、しかもその時代への理解を深めることなしには行ない得ない。
  その意味で、巻末解説の太田哲男氏の指摘を受ければ、本書の意義として、「当時の具体的な状況を想像し、その時代の『根本問題』に対応しようとした古在たちの『英知と勇気』に思いをはせる」ことは確かに重要であり、積極的に求められるべきである。
  しかし、なのである。当時の状況というものを想像しようにも、戦後ベビーブーム世代は、その基礎的な知識を欠いていると言うのが偽らざるところである。その後の若い世代はなおのことである。私たちがこの本から多くのものを学び取るためには、人間に対する問いや、現代史に対する一定の学習が必要であって、それなくしては想像のしようもない。私はこのところ学会や会議で海外に出ることが多くなったが、わが国がいかに現代史を軽視してきたか、そのツケの重さに気が重くなることが大変多い。第二次大戦に関して述べるならば、わが国はもちろんのこと、中国、朝鮮、インドネシア、フィリピン等々、あるいはロシア、ヨーロッパ、アフリカ等でどういうことが行われてきたのかという問題は、決して一部の有識者の知識に収めて済むような問題ではない。もし青年世代が、全体としてこれらを真っ向から知り、学び取れば、人間や家族に対する清く尊い真っ直ぐな心情が呼び覚まされるし、国家、宗教、民族、権力というものに対する深い認識と自らの責務(民主主義的精神)を獲得することができる。その意味から、現代史を教科の一つに数えるくらいの認識が教育には必要である。試験と受験の学校がそれをしないなら、誰かが積極的に行わなければならない。さもなければ、哲学することも覚束なくなる。文学や芸術も同様である。その点、丸山さんが松下村塾方式を推奨したのに対して、古在さんが、「僕も現在、村塾ですよ。これなら、範囲はせまくても、浸透力だけは多少あると信じています。」と応じたことを重視しなければなるまいと考える。
  順繰りに読んでいくと、本書ではじめに興味をひくのは、古在さんの青少年時代の思い出であろう。高く飛ぶものに興味を持った古在さんが飛行機に強く惹かれていたこと、それが古在さんの理系への志と重なっていることなど、詳しい当時のエピソードを交えての話であるが、今はこうした後につながるよい思い出を与えることが簡単ではないゆえ余計に印象深い。数学に関してのお二人の思い出も大変教訓的である。
  こうして進む対談はやがて社会的関心と自我への関心というテーマで、丸山さんが古在さんを土俵際に追いやる風を見せる。父親に「あれは作りごとだ」と言われた文学を高等学校まで読まなかったという古在さんは、「大正デモクラシー」の少青年期を「ぼんやり」育ったと言うが、十代に起きた頃のことを題材にした、自我とか社会的関心という問題においては、さすがに丸山さんの突っ込みが勝り、この辺りのやり取りがおもしろい。
  ところで河合栄治郎については、その内容から見て、「自由主義者たち」という見出し(八二頁)ではなく、河合栄治郎の名を付した見出しにした方が良かったと思う。自由主義の評価については、よく吟味してかかるべき問題であって、熱弁を振るう形の丸山さんの話と古在さんの応じ方から見ても、河合を筆頭とする、ファシズムや国家主義を批判した自由主義への評価は決して軽んじられてはならないと思わせられる。
  この自由主義に歯に衣着せぬ形で批判を浴びせたのが戸坂潤である。戸坂の立場は彼の「日本イデオロギー論」(一九三五年)第二編「自由主義の批判とその原則」に詳しいが、河合栄治郎の「日本のマルクス主義者は、現在の状況で友として手をつなぐべき自由主義の攻撃に憂き身をやつして、客観的には国家主義の台頭を助ける役割を演じている」という批判を、丸山さんが「当たっているところもあるのです。」とするくだりは議論のあるところであろうが、もっと一般に理解されていい。一方、丸山さんの「何といっても、マルクス主義はヒューマニズムと啓蒙の子でしょう。」という発言を受けて、戸坂が「あまりヒューマニズムということをいわなかった」という古在さんの言は、科学的精神あるいは科学的批判という譲らぬ立場を貫いた戸坂の唯物論的立場をあらためて鮮明にする。戸坂論の課題の一つと言ってよいだろう。
  これからというところで紙数が尽きた。最後に哲学関連を一つ。
  古在さんの『現代哲学』(一九三七年)についての高い評価は、丸山さんがその第一印象を「痛快、痛快」と述べていることや、「改訂版を出して下さい。」と発言していることからも知られる。もちろんそれは戦前の唯物論研究の最高水準をゆくと言われる労作である。しかし、もし丸山さんの願い通り、改訂版が出ていたら、特に十九世紀来のマルクスの継承者達や信奉者達、又その政治的勝利者達が展開してきた「マルクス主義」の哲学に対する根底的な批判も積極的に行われたであろうし、当時その批判の対象に掲げられた哲学者や学派等に対しても、新たに批判の修正等がほどこされた筈なのである。この非常に大きな意義のある課題に、古在さんは著作の形で応えることはなかった。残念であるが、これは唯物論研究の重要な仕事として次代に残された。私の推測では、むしろ、古在さんは、戦後の私たちの世代にそれを委ねるおつもりであったのかも知れない。
  生命の危険を余儀なくされる「暗き時代」にあって、自分の学問を歪めず、女子学生や労働者の学習要求に身の危険を覚悟して応えた人。投獄直後に前後して亡くなる両親への深い悲しみを胸に、一筋に圧制に抵抗し、唯物論哲学を高い学問的水準に引き上げた人。その人への深い尊敬を、本物の知識と鋭い論法、温かい心と熱い人間的言葉で示した対談者の良心。私たちはそこから、沢山の知恵と課題と勇気と希望を受け取り、人間への信頼と知性の素晴らしさにしみじみ感じ入ることができると思うのである。

 (三部に分かれる本書の、その第一部である「一哲学徒の苦難の道」を対象に書いた。この対談は一九六六年六月から八月にかけて「エコノミスト」に掲載されている。) 

                                               (同時代社刊・二〇〇一年)

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