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◆ 話の始めに |
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これから、知識とは何だろうということを考えていきます。皆さんに楽しんで読まれるように、教育や学習の土台が分かって良かったと言って頂けるようにしたいと思っています。 早速ですが、知識への関心は、僕の場合は少々早めで、中学生時代にさかのぼります。もう40数年も昔のことになりますが、その前段階として、小学校5年の時にどうしても納得がいかなかった担任の話があります。 その先生は僕の父同様の大正生まれで、剣道3段の腕前だという噂でした。竹刀を教室に備えていて、授業中にしっかり使います。宿題忘れたとなればコツン、よそ見をすればコツンというふうに。180センチあったろうと思いますけど、見上げるほどの長身(ジラフというあだ名で呼ばれていた)で、失礼ながらお顔がカマキリに似てました。 話のきっかけは覚えていませんが、ある授業でこんな話をされました。「30分の試験で、同じ100点でも、15分、20分で解くのと30分かかるのとでは価値が違う」と。しかしどうもこの考え方には納得がいかないものがあって、僕は先生の顔をまじまじと眺めてしまいました。 「カチ?色々考えれば時間は必要だし、勉強は何より考えることが大切なはずだよ。そこを限られた時間で計って割り切るなんてことはできないじゃないか。ものを考えた分、30分の方が、いい100点ということもあるだろう。」と考えたんですね。しかし、今だって解答は「速い方がいい」式の考えに同調する人は多いと思います。 中学生になると、何だか自分に相当自信がついてきました。だんだん学校の授業には満足できなくなって、教科書も不十分と思うようになりました。 そのうち、テストや序列のために勉強するのはおかしいという考えをはっきり持っている自分に気付きました。そして、この不愉快な現実の根っこにあるのは受験体制だということが自分には大きな問題になりました。なんで、いつまでも僕たちの学習活動が縛り上げられなければいけなんだ、と悲憤慷慨してました! で、周りを見てみれば、中学で社会に出る級友が10人くらいはいた(一クラス58人!今とは違う)し、非行児と呼ばれた級友も結構少なくありません。彼ら彼女らは、勉強の世界からとっくにはみ出した形で学校生活を送っているようでした。 しかし、様々な出来事を通じて、知識に対する欲求がその級友たちにないわけではないということが分かってきました。そして、知識がそれぞれの生き方を振り返らせ、よりよく生きようとする意思を作る力を持つものであることが、僕にも理解できるようになりまして、これは収穫だったと思います。 知識をどう考えたらいいんだろう、という問いは結局僕の頭の中にずっと居座り続けました。それからもうずいぶん時が経ったことですし、そろそろ僕のささやかな研究と思索を、少しでも皆様に役立てていただく時期であるかな、と思っているわけです。 10回くらいのシリーズで進めようかと思っています。話題が話題だから、堅っ苦しい文章も出てくることもあるだろうと思うんです。でも、皆さんと仲良くしたいですから、分かってもらえないような話はしません。何しろ教育を考えるのに避けては通って欲しくない、そういうお話なんです。 お急ぎの方は、下の星印を参考にして下さい!各回の最初に書いておきます。 ★★★★★ 皆さんにぜひ読んで欲しい!必ずお分かり頂けることでしょう。 ★★★★ 少し難しい言葉も入っていますが、この位はいいでしょう。 ★★★ あとはだんだん・・・。 ★★ ・・・・・ ★ ・・・・・ |
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知識に対する関心は、古今東西、もう本当に古くからありました。 哲学者と呼ばれる人々なんですが、彼らは知識って何だろうと、色々考えました。例えば、「知」っていうのは経験に基づくものなのだとか、形式を持つから「知」なんだとか、あるいは「知」の本質は形而上的!に認められるものなのである、といった議論もあったりして。「ヒャァー難しい!そんなのカンケーねぇーよ!」と敬遠されてしまうでしょうね、これでは。 しかし、まだまだありますよ!「知」は直感的な性質とかアプリオリ(先天的)な性質を持っている、いやそうじゃないとか。本質や実在や真理との関係はどうか、というテーマもありました。近頃では、「知」の社会的性格や歴史的性格(これは重要な問いです)、知覚や認識、あげくは身体との関係(これらも大切)とかを論じる傾向です。根源知、暗黙知、技術知、実践知、身体知、学校知等々、知識に関する様々な術語というか用語が生み出されてもいて、かなり凄いことになっているんですけれども・・。 僕とてもまぁそれらの問題を無視するわけではありません。しかしです。神学者とか、哲学概論を講じる教師ならともかく、僕としては、知を、人間の活動として、特に人間の頭脳の活動として考えたいと思います。第一そうしないと、解明作業がおもしろくないですよ。やはり、人間の頭脳活動や身体活動のメカニズムとの強い関わりで知識を理解したいし、役立てたいと思うのです。 僕の知の探究成果は、「活性知」と「閉塞知」と呼ぶ知識に表されていますが、先ずは基本問題からということで、知識の成立過程を見てみることにしましょう。 皆さん、手とか耳、舌とか目とか鼻、僕たちの感覚器官(sense organ )を思い浮かべて下さい。 それらはみんな、身体の最先端に位置していますね。世界に向けて開放されているわけです。これらの器官のおかげで、僕らは生命体として欠かすことのできない情報をもらっています。だからものすごく大切な感覚器官なんですが、知識の問題としては長らく関心のソト。それでは本当のところは分からない、と僕は考えたんですね。つまり、感覚器官とまわりの世界(環境)が接触している。そこんところを忘れたらアカン、ということで話を進めます。 感覚器官のうちでも、特に注目して欲しいのは、皮膚感覚です。皮膚っていうのは、僕らの生命にかかわる最重要の器官です。皮膚が感じなくなったら、100度のお湯でもザブーンと平気で入っちゃうし、茨の上だって血まみれで歩いちゃう。もう大変です。生きていけません。舌だって皮膚だし、耳もそうです。鼻の中も皮膚なしでは役に立たない。毒ガスの中を平気で歩いて直ぐに天に召されたりします。 17世紀くらいのイギリスでは、経験論者たちが「快・不快」のことを論じていましたが、それ自体があんまり深まったわけではありません。けれども、感情は低くて愚劣だと言って問題にしないのが普通であったもんですから、そういう気取った頭でっかちに対してはいいお話で、感覚から話を始めた彼らはやはり立派だったと思います。それはそうとして、感情抜きでは僕らはロボットと同じです。人生だの生き甲斐だのと言ってられません。そこで考えて欲しいんですが、その感情とやらはどこから生まれるのか。心理学ではとか、生理学ではとか、そういう気を回さなくていいんです。 やっぱり皮膚。熱ければ熱いと感じ、臭ければクサイと感じます。脳があるから、これを意識としてとらえるんですが、いやな気分とか嬉しい気分とか、こういう気分の始まりは、案外「おしめ」の感覚から来ていたりするかも知れませんね。 皮膚経験が浅ければ感情も浅くなります!春のかぐわしい空気、水のせせらぎ、抜けるような青空、台風や木枯らし。もう忘れてますが、ママさんのおっぱいを吸って一眠りするときの満足。人はまぁ何とたくさんの経験を、皮膚を通して取り入れて、感情を豊かにしてきたことでしょう。 というわけで、何と言っても人間は感情の動物なのでありました。次回をお楽しみに! |
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