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HIAS : Human Intelligence, Arts and Sciences
HIAS:ファミールのこと 長野芳明 |
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27歳で学習塾に勤務してから数えて30年間。いや、中学2年生時代よりこの方、僕が主体的に教育に関わらなかったことは一度もない。確かに今では、哲学や文学面での仕事もあるけれども、それこそ人間や教育につながらないではおかない分野だ。 教育に根本的な関わりを持って生きてきたという点については、少なくとも中学時代にまでさかのぼる、僕なりの背景がある。 小学5年の頃より、学校の日頃の学習に多々疑問を感じることがあり、これでいいものかと首をかしげて暮らすところが僕にはあった。中学生になると、学習の内容の問題とともに、受験体制下での勉強が、人間形成上も、僕たちの行く末においてもかなり大きな問題だということに気がついた。知識を求め、読書にいそしみ、教師に学習上の疑問をぶつけるなどして僕なりに模索した結果である。無茶な話ではあるが、そのうち、学習は自分でやらないことには仕方がないと考えるようになった。学校の勉強に対してほとんどさじを投げたのであるから、生意気といえばこれほど生意気なこともあるまい。しかし、それは詰まるところ、教育も、哲学も、科学も、芸術も、文学も・・・と、自分の中でそれらが一つにまとまることを求めていたことであろうかと思う。 思考を停止して、ただ教師や教科書や問題集の言いなりに、暗記と公式に頼るような学習には、限界も弊害もある。知性はそう判断する。一生苦労しかねない学習法を認めてしまうようでは仕方がない。 それが勉強なんだというイメージを持つ人は多い。こういう人は、競争を肯定し、オイテケボリにならないように子供の教育に歪んだ情熱を注ぎ込む。 しかし、第一、成績にしか興味がない子が生まれるとして、それがそんなにいい子で親の望みにかなう子供なのだろうか? 「成績のために」机に向かう習慣をつけてどうなるというのだろうか。一歩下がって落ち着いて考えてみてほしいものだ。 幸い僕の場合は、中学2〜3年当時に、本物の学習は自分らの欲求に離反しないということに気付くことができた。そして、たくさんの「勉強嫌い」や、「非行」の実態には、本物の学習活動からの疎外があるという判断を身に備えた。(僕の「閉塞知」「活性知」の議論の水源は、この当時の体験と模索の中にある。) 本物の学力を育てればいいのである。知を活性化すれば、受験に臨んでも決して後れをとることはないし、進学後の向学心が萎えるというようなこともない。概して、すくすく育った子どもは、学びの場面においてもチャレンジすることが大好きなのだ。 切磋琢磨して学習や学問に励むことはとても大事である。しかし、「競争主義」はそれとは別物。全く違う害毒をもたらすものでしかない。 具体的に、競争という言葉の意味するものをとらえてみると分かる。そこには、成績を上げ、人よりいい点数を取るために勉強するということ以上の動機などないではないか。社会体制が競争によって成り立っているからといってそれを煽るのは、実に自己中心的な邪道である。 先ずは、競争主義の修羅場から子どもを守ることだ。守られた子どもたちは、探求心を働かせ、すくすく伸びる。少なくとも僕の指導する多くの子たちは、勉学への違和感を持たず、集中して学習し、活き活きしている。 これからの、全世界に通じる学習は、健やかな心身と本物の学問を土台として行うしかない。日本語の力をつけ、思考力を育てることが大切であり、科学知識の基礎を作ることが大切である。 ファミールでは、高い学力を培うことと、人間形成を図ることとが一体になっている。 しかし、充実した知的空間・施設を持つとはいえ、あくまでも自宅で指導するわけであるから、少人数で、志のある方しかお相手できない。そこのところをどうかご理解願いたいと思う。今後ますます、本物の知的教育の何たるかを、ご家庭のご理解を得て十分に探り、元気に学ぶ子、大いに活躍する若人の育成にかけていきたい。 |
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ニューヨーク大学の留学生体験記で入選し、大学の集いで スピーチを行った次女。他の入選者と共に。(2004年) 先輩の大学生(理学部生)から話を聴く |
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