美しい花々が咲き、きれいな空気にのって青い空が一面を照らしているとき、落ち着いてそのあたりの草地にちょっと腰をおろしてみませんか。このページでは、こういうときに思い出す人々の姿、きれいな場面、楽しい出来事などを綴ってみたいと思います。


いい話、うれしい話

  先週の休日のこと。行きつけの銭湯の湯船につかっていると、向こうに見える洗い場に風呂仲間のおじさんが座っているのが目に入りました。一月振りくらいです。昭和一ケタかな、と思っていたらどっこい大正9年のお生まれと聞いてびっくりしたことがあります。
  戦中は飛行機の技術者だったとか。昭和19年12月31日夜、フィリピンから台湾へと秘密裏に船団で移動したときのことです。敵の水雷が襲ってきたために甚大な被害があり、おじさんの船は損傷を負いながらも、際どいところで何とか上陸できたということでした。おじさんは、「撃沈」と「轟沈」、その状況の違いなど、具体的にお話してくれたのですが、お話を聴いているうち、湯船の湯気が立ち上がってくるごとく、「九死に一生」という言葉が脳裏に浮かんできました。おじさんは、その台湾から、特攻機が40数機飛び立ったという話もしてくれました。僕はそのことを本当に全く知りませんでした。帰ってきた特攻機もあったということでしたから、鹿児島のように、その飛行兵は疑われて、虐待されたということはなかったかとお聞きしたら、それはなかったねぇ、と言われました。(僕の父は二つ下で、中国の戦車隊にいました。もう殆ど父の「戦友」は存命していないようです。)
  さて、その方の右手がビニールでぐるぐる巻きに保護されてます。あれ、怪我をされたな、どうしたんだろう・・・、声をどうかけようか、と湯船の方から見つめて考えていましたら・・・。
  背中全部と大腿部まで、豪勢に刺青を彫りつけている30過ぎの茶髪の兄さんが、タオルを絞れないでいるおじさんに気付くと、ぱっと飛んでいったのです。そしてタオルを絞り、手桶の水を換え、石けんを使って、その刺青の兄さんは、おじさんの背中を流し始めたではありませんか!
  先ずはおじさんは困っていないか、何かすることはないかと思うではなく、こちらはただぼーっと自分の都合を考えていただけ。我ながらまことに恥ずかしいことです。
  教育、教育っていうけれど、こういう若い人の気遣いや行動力で、こちらの底が見事に割れてしまったなぁと、反省、反省、反省。
  流し終わってから、その刺青の兄さんは、湯船の縁に腰を掛けて、ゆっくりと文庫本を読み始めました。さりげないものです。人はほんとに見かけによらないなぁ、大したもんだと頭を下げて、僕は隣の水風呂に飛びこみました。

(2005.7/23)

追記:家庭、学校、社会で起こった子ども達の悲惨な事件が後を絶ちません。報道を見聞きしながら、日本の教育のことを考え、ふと僕のことを思い出してくれた運動部(大学)の後輩がいました。もう10年くらい会っていないと思います。よもやと思ってパソコンで検索し僕のHPに出会ったと、数日前にメールをくれました。
 HPにあった「お風呂での刺青の・・・」お話にとても考えさせられました。で始まる今日届いた二伸には、街で目を光らせる存在が消え、怖い大人が否定される社会が何か間違っているのではないかという思いがする、とありました。「怖い大人」とは、社会のルールを守る大人のことでしょう。上に書いた総刺青の兄さんは、おじさんの手拭いを絞り、桶の湯を替え、背中を流すという一連の行動を鮮やかにやってのけ、そ知らぬ顔で風呂を出ました。何というか、確かに学校、家庭、社会における教育活動がことの外大事であることは言うまでもないことですが、考えてみると、「怖い大人」どころか節操なしの「だらしない大人」があちこちにいますよね。しかも、注意をしたら刺されることもあるような乱れた社会。うーん、我々はせめてこの兄さんのように人々に接し、社会生活のいい風習を絶やさないようにしたいものです。
(2006/10/30)


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