はじめに
小学生から大学生まで、あるいは一般市民にいたるまで、「学力」の低下の問題が話題となり、論議を呼んでいる。
これらの論議は、現在進行中の教育改革の本質にかかわるし、日本社会の現実と未来にも関わるから、興味本位も散見するけれども、それこそ様々な資料や論点が提供され報道されているところである。
それらをまとめてどうこう言うよりも、私なりに問題点を深めていきたい事柄がある。そこで、文藝春秋十二月特別号の特集記事「教育、教育、そして教育」(何でもブレア首相が就任演説で述べた三つの改革を示す言葉がこれだそうだ。)で紹介された意見などを見たりしながら、教育や学力と知識をめぐる思想の問題、というようなことを考えてみたいと思う。
やっぱり「教育の質」が気になる
よく話題に上るようだが、分数ができない大学生とか、四本足のにわとりの絵を描いた大学生の話。へぇー本当?と世間はあきれるけれども、日常の生活風景や教室風景を見てみれば、これは余程気をつけてかからないといけない、知的であるべき教育はこんな風に変わってしまったのか、ということが痛感されるのである。
つい先ごろ、私の関係する教育団体の六年生達にあることを聞いてみた。というのは、先頃NHKテレビが放映した教育特集の画面に映った教室風景が気になったからだ。
計算のプリント学習をしている六年生のクラス。プリントの終わった何人かの子たちが、おもむろにマンガ週刊誌を取り出して読み始める。一方では机に身体をもたれかけて眠そうな子もいる。終わってない子は、鉛筆を走らせる。時間を争うためか、子供たちの書いている数字はかなり乱雑。(ことによると普段でもきちんとした字になっていないかも知れない。)確かに計算ドリルなど、終わってしまえばマンガを読んでいいという程度の頭の運動でしかないとも言える。それにしても、これでは一体いつ生徒は知的な好奇心を高めたり、きちんとした言語活動の下で学んだりすることができるだろうか。(言語が望ましい形で用いられなければ、「質の良い」学習活動からは遠のくばかり。そのことが分からない教師はすぐさま職業を変えるべきである。このくらい言っても罰は当たらないだろう。)
六年生たちに僕が問いかけたのは、「学校の先生は、きちんと話をし、ノートの執り方や、問題の考え方を、例えば図や表や絵などを用いて教え、そうすることを求めて指導しているか。君たちのクラスでもマンガを読んだり、机にうっぷしている子はいるだろうか。」ということだ。四〜五校(公立校)にわたる六年生の答を聞いて僕は驚いた。先生はそういう風には教えていない、授業態度は殆どか全く要求されていないと言うのである。信じがたいことだ。何故ならそれは決して好ましい状態ではなく、知的な興味や力量をつける教育の姿とは非常にかけ離れていると思うからだ。僕の知る限り十数年前とはかなり事情が変わってしまっている。
共通一次試験やセンター試験が、マニュアルなしには何もできない学生や先生を作ったとも言われるし、文部省が採用した「ゆとり教育」や「新学力観」は、現場の学習内容を著しく変えてしまったということも指摘されている。それではもう教育界も若い親たちも全体がそれに括られてしまっているということか、しかしいったん崩れたら大変なんだぞ、と思ったりしながら考える。
そうだ。一つ思い出した。数年前、僕は英語の教師などをして生活の糧を得ている女性哲学者オリガさんに久しぶりに会った。そして一緒にモスクワ郊外を散歩した。僕が問い掛けたソ連崩壊後の教育の話になった時のことだ。何と言っても教師の給料が低いため、力のある者が教師にならない。小学校の教育の質の低さは本当にひどいものよ、とオリガさんはため息をついた。
「教育の質」。そうなのだ、問われるのは「教育の質」ではないか。それを差し置いた教育の議論には全く実りがないはずである。
中国で八年間学んで今年帰国した僕の娘も、問題は教師の質が確保されない点にあって、教育レベルの低さを克服できない。地方の状況は特に大変だと語ったことがある。
立派な教室がなくったっていい。それは将来解決できることだ。問題は先生という人間が教師としてどれだけしっかりしているかということなのだ。
その点、日本は何と恵まれていることだろう。給料も悪くないし、身分の保障もしっかりしている。その故もあって教師になろうと思う若者は多くてもなかなか採用されない少子時代の就職事情。
オリガさんは、給料は低く待遇が良くないことを教育の質の低さの原因とした。それは分かる。確かにそうだろう。だとすれば、日本の教育の質はもっともっと良くていいはずじゃぁないか。何十年も前に民主教育を掲げて闘った先生方は、待遇改善を教育の質の確保に結び付けて必死だった。待遇改善はストレートに教育の質を上げるものと信じて闘った。
しかし、である。大きなお腹を抱えて出産当日まで教壇に立ち、戦場に送られた夫を待ち続けた一人の女性教師を僕は知っている。「産休や生理休暇など、私たちは女性教師の身体を守り、より良い教育条件を実現するために、それこそ戦後直ぐに立ち上がったんですよ。それは決して楽な戦いではなかったのよ。でも定年を迎えて、初めて海外へ旅行に出たとき、一群れの若い女性たちが生理休暇を利用して同じ旅に出る、その皆が教師だということを知って、私たちは何かを間違えたのではないかしらと思ったの。そういうつもりで生理休暇を勝ち取る闘いをしたわけではなかったのよ。よりよい教育を実現するためだった。二度と子どもを戦場に送らないという誓いを立ててね。組合の研修会もそう。その程度のことでよく報告台に立てるわねと思うものばかりになってしまったと思うのよ、私。」
銘ずるべし。わが国では、一般に、貧しく待遇が良くなかった時代の教師の方が、教育にかける情熱はもちろん、指導能力も高かったのではないか。勉強もしていたのではなかったか。教育者たるもの、そんなことを言われて漫然と日を送ることはできまい。指導能力の向上は知識の探究と堅く結びついている。近頃の教師は勉強しないなどと決して言われてはならない、と。
子ども達が「どうしていいのか分からない」と言うとき
きちんとした授業態度が要求され、言葉遣いもおのずと正される知的な授業に、学習体験の貧しい、先に紹介したような子達が接したらどうなるであろうか。ここが非常に肝腎だが、「どうしていいのか分からない」。だから、ただ黙って聞く(座っている)だけで精一杯になる。ちなみに僕が聞いた子たちは少しはましと思われる子たちだが、自ら発言することは苦手だった。だから僕は、選択肢を設けて挙手で意思を表明させることにした。情けないことだ。しかし彼らが悪いのではない。そうさせた者たちの責任だ、と言ってどこが悪いだろう。
「どうしていいか分からない」子たちにももちろん世界がある。習慣も言語生活もそれに見合った世界を持って暮らしているわけだ。現代の若者文化にはその反映がある、だから正確な表現や社会的な性格を持つ問題にはなかなか関わり難い、学生運動が盛んだった時代の若者たちとは根本的に違うものがあると言わざるを得ない。「どうしていいか分からない」という言葉は、まるで巨大なガスの中心部にあって、哀れも感じるのだが、すべての最良の文化的質を無に帰させるような虚しさ、恐ろしさを秘めているように感じられてならない。
言われなければノートを執らない。ノート執りはしかし機械的に写し取る作業を行うだけのこと。図を描く等して、つまり「表現して課題に取り組む」(これは僕が気に入っている教育指導の指針である)ことなど身に付けさせてもらっていないから、何度教えられてもなかなか自分のものになってくれない。
要するに、永六輔さんではないが、「読み書き算盤、返事挨拶後片付け」の柱六本をしっかり立てる時期を誤ってはならない。鉛筆の握り方がひどいということは、箸だって「正しく」持てないかも知れないということなのだ。姿勢もそうである。食生活や社会生活の変化にそれらの原因を持っていくにしても、要するにそれらが抗いがたい力になるのは、主体的な努力や自覚を欠いた大人が多くなったからなのである。指導者が指導せず、親が親らしいことをしなくなれば、例えそれらが社会の変化の反映であるとしても、生活と文化の質はどうにも低まるしかないではないか。
もちろん僕は、大人が自覚すればそれで解決すると主張しているのではない。学習の「中身」を問い、批判し、それを高める努力と能力がなければどうにもならないということを併せて言っておきたいのである。
しっかり教えてあげてください
学習指導の「中身」を問う場合に大変重要だと思うのは、学問的基礎や古典的教養に裏付けられることなく教科指導を導くことの不毛さを知ることである。
例えば文芸評論家の福田和也さんは、「国語の教科書で現代作家を取り上げる必要はない。」(本当?)「森鴎外か、せいぜい志賀直哉どまりでいいじゃないか。」「金子みすゞですらいらない、鈴木三重吉にして欲しい。」などと敢えて極端を言って?基本の重要性を指摘(『文藝春秋』十二月特別号)している。その意図する所は概ね了解するとしても、それらの作品を教える指導者(教師)にどれだけの意識と熱意と力、文学的教養があるだろうか。義務教育段階なら特に、しっかりした発声で本を読むこともできない人が、段落の区切りだの何のと黒板に書き連ねたって、それで志賀が分かるわけではない。「城之崎にて」を声にして読んでごらんなさい。描かれている世界がどういう表現やリズムや間合いで活かされているのか、読む行為の質の高さ抜きには作品の持ち味を見抜くことなんぞできませんよ、と僕は言いたいのだ。
しっかり発声して読み味わうという行為が非常に乏しくなってしまった現在、言語は対象に迫る力をどんどん失いつつある。
こうした状況下、齋藤孝さんが『声に出して読みたい日本語』という本(草思社)を九月に出版した。周知のように同書はたちどころにベストセラー本になった。自身塾を作って小学生たちに独自のメソッドを適用し、「暗誦・朗誦文化」を国語教育の柱とする活動を行っている齋藤さんであるが、先に私が紹介した六年生達を裏付ける指摘をしている。「子どもが動けないのである。初めて出会う相手に対して、自分から動いていって挨拶をするということができない子どもが多い。」「これが、日本の現実である。この冷えて動けない身体を、いかにレスポンスできる動ける身体に変えていくか。これが、日本の教育の中心課題であると再認識した。」(『文藝春秋』十二月特別号)と。
「冷えて動けない身体」とはうまく衝いたと思う。齋藤さんが行ったのは、簡単なルールに基づくゲーム感覚のコミュニケーション活動で、いわば基本的な社会的行動に属するものであったのだが、子どもは動くことができない。言われていることが分かっても「どうしていいか分からない」ということのようだ。
劇的に、社会生活、学校生活、家庭生活等が変化している。それらの変化はしかし、それに対応し対抗し得る「涵養」(長谷川如是閑『日本的性格』岩波新書二六。昭和一三年)を怠ればいずれ悲劇をもたらすしかないのである。
林真理子さんは、同時多発テロを受けたブッシュ大統領の演説を聞いて「ああ、戦争というものはこういう風にして始まるのだという恐怖を持った」と言う。林さんは書く。「私たちの子どもが生きていく二十一世紀には、おそらく戦争は起こらないだろう」と「根拠もなく信じていた」「私は、何という楽天家だったのだろうか。私たちの子どもは、豊かで平和な国で生を終えるという考えはもはや幻想に過ぎないらしい。」「電車や町中で多くの少年少女を見るたび、私はこの国の子どもたちがどうやらあまりよくない方向に行くことを感じていた。彼らの顔つきから、知的なものや真摯なものがまるで感じられないのだ。」
しかし、「まあ、覇気のない子たちばかりだけど、こういう子たちばっかりなら、戦争を起こすわけでもないから、ま、いいか。」と林さんは思い直していたそうな。
「けれどもそれは違うとわかった。戦争というものは、指導者が愚かな民衆を操ることによって起こる。戦争を拒否するためには、実に多大なエネルギーが必要だ。本当に強い意志と行動力を持っている人だけが、平和を持続させることが出来るということを、今回のこのことで実感した。」(『文藝春秋』十二月特別号)
そう、「違う」のである。林さんは「親が悪い」と語るのだが、もちろんそれは親ばかりのことではあるまい。(ある人々に言いたいのだが、親や家庭の責任を問わない論法はそろそろ卒業してしまった方がよい。その上での社会批判が必要なのである。蛇足でしたかな?)
青少年の心理的・精神的荒廃は政府権力側の教育政策や社会体制のせいだと「論勇ましく」、自己責任を問わないのは止めようということだ。責任の所在を体制や政府権力側に求めて批判することは非常に重要である。しかし、自己のかかわり方を二の次にして外的条件の分析に終始して済ませる時代はとうに彼方に去ってしまったのである。そんなことでは、民主主義を担い高める、自覚的で能力のある若者を次代に迎えることなど到底できない相談である。
「教科書を読む行為に関しても、正しい姿勢と発声が必要である。その実践能力を持たない教師が初等教育を担当すれば、洗練された美しい日本語も決して美しくならない。例えば、戦前の軍隊的姿勢や発声が連想されると言って、これを軽視し、指導を緩めたり、放任したりしては教育になるまい。」「画一的な表現の強制は確かに幅広い意見の出現を阻む。それゆえ、戦前の軍国時代に行われた硬直した発言の弊害を乗り越え、新たな時代にふさわしい表現方法の確立を目指す必要があるのである。」(拙稿「豊かな教育のための知識論」東京唯物論研究会編集『唯物論』七二号)
三年前にこう書いた時、私には私たちの世代以上の中に感じられるある種の浅さと反動作用の陰がちらついて仕方がなかった。子どもを自由にさせるというと聞こえはいいが、教えることを強制として忌避して済ませる単純さ、その考え方の質の如何。「教える」ことへの批判は、実は体制的な質、権力機構に都合よくあれとの強制に対して向けられているのに、それを拡大解釈して「教える」こと自体を悪と断じることの無責任。これでは次代は育たない。林さんが見た通りの少年少女がこれといった目的もなく町中を歩くというわけである。箸の持ち方だって自由でいいじゃないか、型を押し付けるのはよくないよ、といった風の「進歩派」ぶり。オリガさんの言う「教育の質」で捉えるなら、こういう主張を臆面もなくする教師のどこに質の高さを認めることができようものか。要するに怠惰なだけの議論じゃん、と言って呆れておくしか手がない。
「閉塞知」は強制される
金子郁容さんの「福田さんは、ゆとりではなく、教育には強制力が必要という考えですか。」という問いかけに、福田和也さんが、「当然です。知識を習得していく過程で、ある水準までは全員をもっていきたい、というところに一種の強制が出てこざるを得ないんじゃないでしょうか。」(『文藝春秋』十二月特別号)と答えたように、「強制」が教育の不可欠の要件のように扱われることについて一言述べておきたい。
僕は、強制という作用は、子どもの能動的かつ知的なエネルギーを殺しかねないと考えている。強制はあくまで誤った行為や態度に対して行われるべきもので、学習そのものは強制に従うことで成り立ち、より向上するという考え方には問題があるのである。
「学力」をいう場合、先ずそれが知識や技術の習得のことを差すということを考えてみる必要がある。だから、学習活動が強制によって成立すると考えるということは、基本的に、知識や技術は強制によってもたらされるという理解に立っているということになるであろう。
ところで、教育学者の佐藤学さんは、学力とは何かという議論には様々な意見があることを紹介した後で、英語ではachievementが学力の意味に相当すると指摘している。佐藤さんは、「学力とは学校で教える内容の学びによる到達を意味するものであり、それは通常テストで測定される」として、学力の意味を限定する。(『学力を問い直す』岩波ブックレット548号)その際、佐藤さんは、欧米諸国においては、日本で言われる「学力」の意味は存在しないと注意している。もっとも英語では、achievementの他に、到達という意味の別の英語を用いてscholarly
attainments と言う場合もあるし、能力という意味を持つabilityという語を使って
scholastic ability と言うこともある。見てのとおりいずれにしても学校が絡んでいることは疑いないのだが・・・。
残念、紙面が尽きたから、問題提起を押し込む形で本稿を閉じることを許して欲しい。
僕は、「閉塞知」が排除されない学習は本物の学的行為になり得ないと考えている。「閉塞知」をやめて「活性知」に通じる道を歩むことが、教育と学習改革の要諦になると考えている。仮に「学力」が、佐藤さんの言われるように「学校で教える内容の学びによる到達」を指すものとしても、そのことが健全な形で実現するためには、わが国の学校教育がかなり長期にわたって抱え込んできた「閉塞知」を克服しなければならない。学校(多くの予備校や塾も)で教える内容は、強制されたばらばらの知識や技術(現実は相変わらず殆どそれに近い)であって、機械的に繰り返し、暗記をするしかないというような場合に、テストで測定された到達度というものを「学力」としてどう見たらよいのかという問題はあるであろう。但し、円周率のように暗記が中心の事項もあるであろうし、指導の質次第なのだが、古典的文章などの暗誦を始めとして優れた効用をもたらすものもある。
ここは一つ読者の皆様と共に考え、教育という抜き差しならない営みを基に、知的活動、芸術活動等のあり方を見据えて歩んでいくことを願って閉じることにしよう。
※「閉塞知」
活性化した知識は、思考活動や認識活動や創造活動を準備し、人間主体形成を豊かにする。一方、極めて限られた仕方で受容された知識は、本来結びつくべき世界から切り離されてしまい、孤立し、活性化せず、過ちや偏向の温床にもなる。これが閉塞知である。(『知覚論の視座』HIAS刊より)
以上は、「Ashikabi Jurnal」に発表した文章です。
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